平凡な日々

 
 でもそれが一番幸せ。
 

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 バンクーバーは1月16日ですが、日本では17日。


 忘れられない日であります。




 1995年1月17日5時46分に起こった阪神淡路大震災。


 私はその頃、家をでて府内で働いていたのですが、次の日からスキーに行く予定だったので、大阪の実家に戻っておりました。


 炬燵の中でうたたねしてた朝方、突き上げる地震の揺れで目がさめ、「あ、地震、、」と思ったあと「ま、いつもの様にすぐ収まるやろう」と最初に思ったのを覚えています。


 そこからはえらいことになりました。



 どんどん横揺れが激しくなり、私は炬燵の中にもぐりみました。
 待てども収まる気配がまるでなく、ガタガタとモノが揺れる轟音のなか、私の体は右へ左へ炬燵と共に滑るように横揺れしだしました。 




 次にバキバキ、バキバキ、バキバキと壁がはがれ割れていく音。


 私はその時点で






 「家が落ちたら死ぬ」と思いました。



 必死で炬燵につかまってもぐってるのが精いっぱい。
 なすすべもなく横揺れして、激しく壊れていく壁の音を聞きながら


 「これが落ちたら終わり、自分は下敷きになって苦しむのか、一瞬で死ぬのか、それとも炬燵の枠で助かるのか」とぐるぐる考え


 「どうか、落ちないで、どうか守ってください」と喉がカラカラになりながら、しきりに祈ってたのを覚えています。



 2分にも3分にも思えました。


 徐々にぎしぎしと揺れが収まってきたけど、揺れが完全に収まったあとの「しーん」と空気が緊張してるような無音状態のあと、堰を切ったように「ごおおおおおーー」という轟音で私は津波が来たと思って炬燵から飛び出しました。


 当然津波ではなく、水のパイプラインが切れた音だったんですが、立とうと思っても、床があちこち斜めになっていて歩くのも必死、「ガスの元栓をとりあえずしめないと!」
と台所に行って確認するとゴム栓が飛んでてそれどころでなかった。


 そのころ後ろに2階で寝てた家族がバタバタと降りてきたのを感じ、ガス臭くあまりにも家の中がひどいので外に出ようとしたけれど、今度は戸が歪んで開かない。



 ドアの窓ガラスを割って飛び出したのを思い出します。



 外の風景はまるで別世界でした。
 道路はガタガタに割れ液状化で泥水だらけ。


 近所の家の壁はくずれ飛んで兄貴の車に突き刺さり、家が横倒し。
 自分の家もそのままごっそり前にずれた形で立っていました。




 状況をみて、これからどうやって暮らしていったらいいのか絶望したのを覚えてます。




 近所中、パニック状態でワラワラ、うろうろ。


 家の中の非常食やブランケットを持ち出そうと家の中に入っては、余震が来て、ぎゃああ~~~といって飛び出してくることの繰り返し。 
 津波が来なかったけど、あれで来てたら皆のまれてた。 まったく知識がなかったうちらでした。


 近所のみんなでとりあえず近くの小学校にと暗い道々、余震が立て続けに来る中を避難しました。


 


 寒さで震えながら、学校で夜が明けるのをまち、あんなにも朝日が暖かくて、不安な心を溶かしてくれた瞬間はなかった。


 
 みんな絶望してた。


「○○ちゃん、地震保険に入ってないわ、、家もつぶれてしまって、これからどうやって生きていけばいいんやろう」って話しかけてきた近所のおばちゃん。



 「でも、誰も死んだ人は出てない。家族がみんな無事であっただけでも、それだけでもいいことと思わんと。 あとは頑張れば何とかなる」って答えたのを覚えています。


 無責任やねえ。



 親になった今、果たして思い言えるやろうか?


 でも、その時は変な根性が出てた。


 


 その朝ヘリコプターが地震のお知らせをしながら飛び回るなか、すごい顔して新聞配達のお兄ちゃんが、ガタガタ道をチャリンコでやってきて新聞を届けてくれた。


 
 不思議な顔して見つめる私たち。


「え?新聞?」


「ここ、なんでこんなんなんですか?」


「え? 周りはどうなんですか?」


「こんなん、ここだけですよ」





そんな状況になってたのは、うちのご近所軒並み100メートルほどだけ。
 あとは、普通に生活してはった。


 これもふしぎな運命やね。


 でも、周りの人に本当に助けられた。
 何事もなかった家の人が、おにぎりとお水を持ってきてくれ、毎日避難所でくらす私たちに、見知らぬ人たちがご飯を届けてくれた。


 職員寮に戻っても同僚たちは不安になってる私に付き添ってくれ、一緒にお風呂に入り、毎日ご飯を一緒に食べてくれ、笑ながら支えてくれた。



 本当に怖い思いをして、悲しくて、絶望もして、不安であったけど、あの時ほど周りの人たちに支えられてもらったことを感じることはなかった。
 



 さすがに育ってきた、父が建てた家が解体されるときはまた落ち込んだけど。
(平屋だった家を、妹が生まれたのを機に大工の父が2階を棟上げしたのですが、その時に土台をきちんと補強して作ってくれ、地震で崩れ落ちなかったおかげで私は生き残ることができました)






 あれから23年。



 あっという間に年月はすぎ、2011年には再度、東日本で大きな地震が起き、その後日本全国、いろんなところで地震や災害が起きるようになりました。





 それでも人って明日は平和と思ってる。
 今日の一日がまた明日も続くと思ってる。
 




 平凡な日々が、実は本当に貴重で、本当にラッキーであること。


 毎日、感謝して生きていかないと。
 


(画像お借りしてます)






 鎮魂