平凡な日々

 
 でもそれが一番幸せ。
 

身体的と精神的

バンクーバーいいお天気ですが、私の気持ちは晴れません。



朝、ムスメを送り出す前、なぜランチを食べていないのか聞きました。



学校が始まって娘は一口もランチを口にしてませんでした。 私に隠してたか不明ですが、たまたま寝入ってしまった昨夜に私がみつけ、問いかけた質問。


返答は「おなかが減ってなかった」




今日お弁当はいれないから、自分でフルーツなど好きなものを詰めていくよう伝えたら、自分でフルーツを詰めながら「今日も食べるかどうかわからん、朝パンケーキ食べておなか一杯やし、だーれも一緒にたべる子おらんし」




思った通り。



一緒に食べてくれる人がいないのもあって、ランチを食べなかったんや、と。




新学期が始まると事は収束するかも、という思いはやっぱりのごとく無駄な考えで、朝授業が始まる前にムスメから来たメッセージは、やはりひと悶着あった子たちが


「自分を見てはゆびさして、こそこそと話をしてる」
「もうやっぱり我慢できない」
「学校をやめたい」



ムスメには、相手にしない、考えることで心をいっぱいにするな、自分を忙しくさせるようにして忘れる、学校にそれでも行ってるムスメを誇りに思っている、ムスメは悪くないと、とりあえず伝え、仕事から帰ったらそのことについて話をしよう、学校には高校を変更したいと思ってることを伝えておきなさい、と返しました。




仕事の間、私はずっと考えていました。




ムスメが今までどうやって学校で過ごしてきたか、から、ムスメが小さい頃にさかのぼり、どういう風に育ててきたか、自分の時はどうであったか、今の自分はどうであるか、とか。



大人になって、嫌なことがあっても上手くやり過ごすことができるようになったのは、子供のころに大なり小なりあった虐めはいざこざから培われたものなのか、それともただ年を取って図太くなっただけなのか?



でも私も一度嫌な相手と働かないといけなくなったとき、すっぱりやめて気が晴れるようにしようと、仕事を辞めたことがある。



ならなんで、学校に通っている子供はすっぱり変わることができないんやろうか?



変えたいと思っても、学校や親の説得でいやいや泣き泣き続けんとあかん。



なんで子供は学校を辞めたらあかんのやろうか?



そこしか道がないわけではない、と口では言うくせに、「気にするな、相手にするな」と励ましてその場をやり過ごせる力をつけようとさせてる。




でも、それって、ためになることなのか?



子供が行きたくない、というのに、そこで逃げたら今後の人生もずっと逃げの人生、そうなってしまわないように願う、教えてるというけれど、それは正しいのか?




彼女を育ててきた、いつもこけない様に、けがをしないように、小さい時から「それは危ないからやってはだめ、ここは危ないから行ってはダメ」そうやって、自分は身の危険の信号があれば彼女を後ろに引かせた。




崖のエッジで立たすのはさせず、後ろに引き寄せたのに、ムスメが精神的に崖のエッジに立ってるのに、私はそれでも彼女を勇気づけて前に行かそうとしてる。



 


これって間違ってない?




身体的と精神的と何がちがう?





仕事から帰ってくるときに考えてたら涙が出てきた。




クリフで立たされた子供を引っ張るのに、身体的も精神的もない。
後ろに引き寄せたら違う道があるんやから、それをしてあげれるようにしたらいい。





そう思って帰ってきた。



彼女がどんな答えを出すのか、それ次第やけど、先のことなんてどうなるか分からへんのやから、言葉にふりまわされず、彼女の進みたい道を優先にサポートする事考えていこう。